ステルスライフ

あの日僕も死んだ

自炊飯とは、どうあるべきか。

食費と自炊は切っても切れない関係にあるので、自炊について、考えてみたい。

 

料理は趣味と言っても良かった時期がある。自炊なんてとても無理と思っていた頃である。世界の珍しい料理の再現に凝ったり、色々なパンを焼いたり、生パスタ打ったり、自炊と言うより、趣味の範疇な料理を作っていた。まさに、ただの道楽である。

やがてそれが自炊に移行した時、様々な材料を盛り込み手を尽くした調理をするのが馬鹿馬鹿しくなった。所詮、食べるのは自分である。美味しさと、節約や手間隙を天秤にかけたら、味は後回しになった。

いや、正確には、味はいい。そこは大事だ。けれど、凝ったものはもう作らないし、一食一品、材料も入手簡単、食費も控えめ。なるべく調理時間もとられないように心がけている。

どちらかといえば美味しいものは食べ尽くして来た方なので、今はまずくなければこだわらない。毎食、贅沢なもの、凝ったものを食べる気にはなれない。食事なんて、栄養が整って、味が整っていれば、シンプルでさっと済む。洗い物がしんどいので、一汁三菜すら守らず、丼一つ、もしくは、皿一枚。それで済ませている。

 

果たして、それを合理的と認めて続けていくのか、手抜きとして一汁三菜を己に課していくのか。迷っているのはそこである。

 

これは自分の中で、ステルスライフの在り方そのものと密接に関係している。

すなわち、自炊メニューは「ジョブズの黒Tシャツ」流に、ルーティンであるべきなのか、否か、である。

なんだかんだで、スーパーで買うものはほぼ変わらないし、そこから作れる、作るメニューも、だいたい決まってしまう。望まざるに関わらず、メニューはそれほど変わらない。それでも、何を作ろうか、その日は何が食べたいのかと、頭を悩ませることも多い。

どうせだいたい同じなら、初めから「曜日ごとに同じメニュー」とかに決めつけてしまえば、食事ごときにウィルパワーをとられずに済む。と、考えるべきなのか、いつもルーティンなメニューなんて味気ない、創造性に欠ける、手抜きな人生だとすべきなのか。

メニューが固定されていれば、食品の値上げや値下げに振り回されくたびれることなく、坦々と同じものを買って悩まずに済むのではないか。そう、考える。

 

食費のことを考えないのであれば、食品の買い物は楽しい。凝ったメニューのためにスパイスを揃えたり、輸入食品店まで足を伸ばしたり、それ自体で楽しめる。

けれど正直近年、ステルスライフ的には、数十円の値下げに振り回されて胃が痛くなることのが多い。いつ買うか、どこで買うか。そんな些末なことに悩みたくはないのだ。スーパーの滞在時間が何時間にも渡るなんて無駄な行為はしたくないのだ。

 

ある時、キッチンの在り方を書いたとある本でルーティンメニューを勧めているのを読んで、咄嗟に「味気ない……」と感じた。おそらく、心は、昔のように華やかで多彩な料理を求めているのだろう。けれど一方その後、「なんだ、ルーティンでいいんだ。そうやってる人は他にもいた。つまらないけれど、楽だ。毎週同じものを食べても栄養なんてなんとかやりくりできるんだろう」と、自分の丼メニュー(一膳一品)を肯定してもらった気にもなった。

 

食費を公開しようと思い立ち、ブログにレシートを書き写しているうちに、その食材で、どんな料理を作ったのかも記しておけば、やりくりが見えてくるのではないかと思いつき、週に食べたメニューもざっくり公開してみた。これを繰り返すうちに、つまらなくないルーティンメニューをリスト化することが出来るのではないか。と、期待している。おお、一石三鳥になる。

 

気が向いたら、レシピもちょこちょこ公開しようと思う。さじ加減でちょちょっと味付けして済ますので、適量適量適量になってしまうかもしれないが、時々、自分でも忘れてしまうこともあるので、メモっておくのは悪くない。何も出来なかった頃は『料理なんて料理本を見て書いてある通りに作ればいいんでしょ』と思っていたが、今では味付けなんて目分量目分量と、ちゃちゃっと作れるようになってしまった。

 

調理が楽しむものでなく、億劫なものになってしまったことを、誇ればいいのか悲しめばいいのか、わからない。わからないが、やり続けなければならないことだけは確かだ。ならば、少しでも、気楽にやれるようになりたい。

 

せっかく、一月に思いついたから、まるっと一年続けて、一年後には、完成されたシステムが出来ていればいいな。

 

 

 

 

 

(結局、人生はカオスであるという結論になるのが目に見えるようだ)

(その前に、三日坊主で終わりそう)